昭和46年12月3日 朝の御理解
                              中村良一
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」



天地自然の働きと、それを、私共は、御恩恵、神様のお働きそのままを、お恵みとして、頂くのが、まぁ御道の信心です。神様は、そういう御恩恵に、私共は、浴しておるわけですけれども、それに対して、神様は、何一つ、私共に求めようとなさらない。自然は、私共に、いわば、無条件で働き続けておってくださり、恵み続けておってくださる訳です。私は、徳を授けると仰る。どういう場合に、徳を授けて下さるのか。また、神様へ向う倍力の徳と、ね。神様へ向うという事は、どういうような事かと。神様へ向って御祈念をすると、ね。心を神様へ向けると、けども、幾らお参りをしても、拝まして頂いても、神様へ向こうて、まぁ一生懸命の信心をさせて頂く。だから、その、向った力の倍力にも等しいような徳を授けて下さるのだろうかと。そうすると、御道の信心者の中には、沢山な徳者が出来なければならない。ね。随分、熱心にお参りをする。熱心に御用をする。そういう人はもう、それこそ、数限りなくあるでしょうけれども、果たして、徳を授けられておるだろうか。してみると、ただ参った、拝んだ、御用をしたと言った様なことだけではなさそうだ。神様が、徳を授けると仰せられる。言うなら、まぁ、お徳らしいお徳と言う、ただ、御恩恵に浴しておるということは、否めない。誰でもこれは、受けておるのである。しかも、神様は、無条件に恵み続けて下さる。
昨夜は、親教会の、今日が六十五年の記念の御大祭がございます。その為に、昨日は、前夜祭でございましたから、幹三郎と同道しまして、博美先生が送ってくれましたから、三人で、お参りをさせてもらいました。若先生が祭員の御用を頂いておりましたから、昨日は、昼から来られる。本当に、賑々しゅう、飾りつけなんかも完了して、もう、いよいよ、今日の、御大祭を仕えられるばかりに、準備も万事整うておりました。私はもう、善導寺、親教会ほど、不思議なところはないと思うですね。こらもう、私にとって。もう実に不可解で不可解でたまらない。こらもう、何時の場合でも、そう感ずるんです。そこで、本当に、こちらが、信心にならなければおられない訳ですね。その事を、神様に、確認をさせて頂いておりましたら、よびらのみねという、あの舞がございますね。吉備舞に。歴史舞ですね。あれは、何と言う、誰でしたかね、あの、(きたかいに無言で)もう、矢も尽きてしまった。それで、自分の矢立ですかね、矢立に、その、そこにあった梅の枝を一枝折りて、矢立にさして戦ったと言う、まぁお話があります。それを舞にしたものです。ね。いわば、弾矢も尽きた、矢も折れたと、尽きたと。そこに、まぁ、武士としての、たしなみと言うでしょうか、まぁ奥ゆかしさというですかね。背中の矢が無くなってしまったから、それに、梅の枝をさして戦う。という様にその、まぁその、何と言うですかね、奥ゆかしいものだとこう思いますが。私は、それを頂いて、私の昨日の御夢の中に、そういう一つの、矢が尽きたと、もう、しようがないと。どうして良いか分からないと。もうその、不思議な、不可解な場面に、直面するたんべんに、それを昨日感じた。どうして良いか分からないと、こう思いましたですね。私は昨日、お祭りを頂きながら。そして、どうする事が本当なのかも、こらもう、私は、こうする事が本当だと思ったことをしておるつもりだけれども、それこそ、つもりであってから、神様は、それを、どう受けて下さるか分からんのです。また、親先生が、どうそれを感じておって下さるかも分からんのです。という訳です。
だから、そういう時に、まぁ頂きますけどね、えびらどんめを頂いて、まぁ梅の花とは、ここでは、信心辛抱と教えて下さいますから。ははぁ、神様が、信心辛抱をさせて下さるんだなと。これは、私の思いが尽きておる時。さぁそこが辛抱ぞと、まぁ言うて下さっておるような気が致しました。梅の花を背に戦うと言うか、ね。そしたら、今朝の御理解を頂いて、この御理解十三節の、今日は、実を言うたら、御理解と御神訓というところの、しかも、この白紙になってますもんね。そのふたところを頂いたけども、ふたところ共、この、白紙でした。そして、夢という字を頂いた。もう一向分からん。いわゆる、夢というものは空しいものだとされてますね。頂くところも白紙ですから、それでもやはり、この様にして頂かせて頂いたところが、只今の御理解十三節。神は向こう倍力の徳を授けると仰るが。随分、神様へは、色々な手立てをもって、修行もさせて貰う。神様を心に念じながら、神様に打ち向かう。そういう例えば、修行をしておるとか、神様へ向うという人は、沢山あります。けれどもその、沢山ありますけれども、沢山の人が、果たして、徳を授けられておるであろうか。ね。徳と言えば、徳を受けなければ、人間の本当の幸福はあり得ないと、こう私も思います。
だから、本当に、私のような、おかげを頂いておるとか、幸せとかと言われる人が、御道の信奉者の中に、どれほどあるだろうかと。一生懸命、向こうてはおる。けれども、徳も授けられない、まぁ、おかげも、さほどの事もないと言うのですから。神様へ向うという事が、向い方とでも申しましょうかね。向かう姿勢というものがです。今日、私、それを感じたんですけれども。天地の親神様は、私共に、無条件に恵み続けておってくださる。そこで、私共もやはり、この、無条件に、それを頂く。いわば、ご恩恵をご恩恵とも思わずに、ただ頂くと。というのではなくて、その、無条件に、神様が下さる、そのおかげに対して、私共が、無条件に、だから奉仕をする。それが、真であり、真心でありましょう。その無条件に奉仕をする。無条件に、いわゆる奉仕をする、そのこと自体が、私は、神様へ向かうという事になるのでなかろうか。それだけが、お徳を下さるのじゃなかろうかという風に、今日は感じます。ね。
教会には、色んな記念祭があります。または色んな行事があります。まぁここの場合は、もう早速、西脇殿の御造営が着手されます。昔から、その、何かがある時に、まぁ打ち込ませて頂くことによって、徳を受けるという風に言われております。さぁ、今度の御造営のことで、いっちょ、本気で打ち込ませて頂いて、ひと徳受けるぞと言った様な風に申します。その辺の所が、それではね、お徳を受けていないと言う事実を、沢山、私共は知っております。それに打ち込んだからと言うて、そら、問題は、打ち込む姿勢ですね。それが、いわゆる、無条件に打ち込む。ところが、私共の場合は、そこに、条件が、何時もある。神様は、無条件に、おかげを下さってあるのであるから、私共も、無条件に奉仕をする。その無条件の奉仕こそが、私は、打ち向かうことになるのじゃなかろうか。徳を授けられることになるのじゃなかろうかとこう思う。
いつも例にお話し申します様に、親教会の四十年の式年、丁度二十五年になりますね。の、式年祭を、一年後に控えたと言うので、委員会が持たれて、そして、四十年祭を、どう仕えるかという話し合いがあった時に、はかばかしいお話がなかった。そこで、私が思うた事は、どうでも一つ、私が、本気でお願いさせて貰って、ね。とにかく、私の働きによって生まれてくる収入、収益の全部をお供えさせて頂こう。一年間、働かせてもらって、一年間の働きの全てを、神様へお供えさせて貰おうと、まぁ発心した訳です。ね。そして、一生懸命、一年間、働かせて頂いて、なるほど、神様が、置いたものを取るように、スムーズに、商売なら商売をさせて頂いたんですけれども。反対に、今度は、そのスムーズさが、反対になって、今度は反対に、それが、そこに引っかかり、ここに引っかかりとするようになって、もう、十二月の、いわゆる、三日が、あそこの御大祭日ですから、もう、十一月でした。もう、あと一月で大祭だと言うのに。確かに、置いたものを取るような順調さで、商売が出来たのにも関わらず、今度は反対に、引っ掛かりが出来ましてね。その本当に、こらもう、このまま、無駄働きになるのかという様な状態でした。
そこで、私は、いよいよ、分からなくなりまして、神様に、それこそ、直接、神様から、お知らせを頂きたいと言うかね、何か分らせて頂きたいと思うて、そのころ、まぁだ、神様にお知らせ一つ、頂く訳でもありませんしね。ただ、無我夢中で、一生懸命、働いておるというだけ。ただ自分は、これは真である、真心である。その真心をもって、一年後に仕えられる記念祭を、本当に、神様に喜んで頂くような記念祭を仕えたいという、ただ一念で、一生懸命に、打ち向かいもしましたけれども。順調のようであって、順調でないと言う、いわゆる、残るものは何にもないと言う一年間、言うなら、働かせてもらって、お供えどころか、何も出来ないような状態です。私は、これだけ一生懸命なのに、神様も聞こえませんと言った様なわけなんです。
そこで、親先生がお取次ぎを頂いてから、私は、ここの、草野の上にあります、お滝場。もう、勿論、お滝場に行くつもりじゃなかったですけれども、まぁ十一月だと言うのに、私が登り始めましたら、もう、すさまじい雷雨ですね。もう、全山鳴動すると言うような、山の半ばでですね。それで、どっか、山の静かなところに、それこそ、篭らせて頂いて、もうその、神様と、言うなら、首っ引きで、まぁ一つ、願うことも願うことですけれども。どういうところが間違うとりゃ、神様は、おかげ下さらんのであろうかという事のつもりで、山に登ったんですけれども、そんな訳で、途中から、変更しまして、そのお篭り堂に、その、まぁ逃げ込んで。そしてそこで、一晩を明かさせてもらい。そして、その翌日まで居らせて頂いたんですけれども、御滝の水を頂きながら、一生懸命、大祓いを奏上させて頂きながら、ね。それこそ、一心に、神様へ、その記念祭のこと、そして、その記念祭に、私を使うて頂くと言う願いの元に、十ヶ月あまりというものを、一生懸命に働きましたけれども。何の、いわば、おかげも頂いてないと言う訳。どういう訳であろうかという事で、お願いさせて頂いたのですけれども、別に、お知らせ一つ頂かなかったが、二日目の朝、お夢を頂いた。その御夢が、大きな井戸があり、しかもその、井戸をこう覗いてみますと、もう、それこそ、その井戸一杯に、大きな鯉が、こう、悠々として泳いでおる。それを、上から眺めさせて頂いて、私が思っておるのが、はぁこの鯉だと。この鯉を記念祭のお供えにさせて頂こうと思うた。
私は、今日、それこそ、皆も、この話を、何遍も何遍も、繰り返し聞いて下さったわけでございますけれども。その、ここでは鯉のお知らせを、お徳とこう頂いております。ね。ですから、そこにその、お徳がそこにある。そのお徳が頂けれるところまで行っておる。ね。そして、はぁこの鯉を、これを記念祭のお供えにさせて頂こうと言いながら、思いながら、私はその、井戸のふちに立ってから、中へ小便をまってる。小便に行ってしまってから。しもうたと思っておるですね。小便で穢れた。そして、今日の御理解を、神は向こう倍力の徳を授けると仰せられるが、ね。例えば、私が、十ヶ月なら十ヶ月ですかね。一生懸命に、記念祭記念祭、記念祭と思うて、働かせて頂いたけれど。初めの間は、実にスムーズであったけれども、それが、反対のほうへなって行って、確かに売ったけれども、売ったのは、引っ掛かりが出来るとか、返品になるとかといった様な事で、まぁ損こそしませんけれども、一つも黒字にならない、儲かりがない。もう後一月で、記念祭だと言うのに、これでは、どうにも出来ないと言うので、今の、そういう事にならせて頂いたんですけれどもです。ね。ですけれども、その、私が、一生懸命、やっぱり、打ち向こうたという事は事実である。しかも、それは真心である。ね。だから、そこで、もう、徳がそこに、もう形成された、徳はもう出来た。もう、頂くばっかりになっておる。
私は、多くの御道の信心者、信奉者は、ここまでで終わっておるのじゃなかろうかと想うです。その鯉を、もう、打ち向こうたことだけは事実。だから、それによって、神様が、倍お徳を作る、準備し、用意をして下さっておる事も事実。けれども、自分のものにする寸前に、私は、不浄が起こっておる。ね。いわゆる、無条件でなかったという事なんです。神様は、無条件におかげを下さってあるのだから。私共も、ね。それはね、私共の信心、その過程において、もうそれこそ、おかげ頂かんならんからお参りしよると。この事ば、お願いせんならんから、お参りしよると。これば、どうでもこうでも、頂かにゃならんから、修行もさせてもらいよると、それが殆んどですよね。段々、それが、そういう信心が、進んでまいりましてです。先日から申します様に、その、ね。信心が間違いがないと言うところまで、いわゆる、あのあれは、例え、十里の坂でも九里半登ったところで、安心してはならんと。ね。十里を登りきって、その向こうへおりたら安心じゃと仰せられますようにです。私共が、無条件で奉仕すること、無条件で奉仕をする、その信心の喜びが、お参りにもなる、御用にもなるという事になってまいりましたら、もう安心、神様も安心してくださるのだ。信心も安心じゃといったような御理解を頂きましたでしょう。ね。だから、そこまで高められてから、そこから受けるものがお徳なんです。ね。だから、無条件というだけじゃなく、無条件でお参りが出来、いや、御礼参拝が出来。無条件で御用が出来、いや、御礼のための御用が出来る。ここんところだけがですね。神様へ打ち向かうという事になるのだと、私は、今日は思います。ね。
記念祭を迎えるために、一年間、一生懸命に働いて、働きの収入の全部をお供えさせて貰おうと。なるほど、それは、決して、汚い、卑しい心ではない。それこそ、真心一杯である。ね。けども、その真心一杯の打ち向かうことによって、神様は、その井戸のなかに、もう、掬い上げるばかりのお徳を、だから、準備して下さった。ところが、それを、頂く寸前に、不浄がかかっておる。ね。私の心がなかった。記念祭記念祭、記念祭と、一生懸命、記念祭のための、いわば、如何にも無条件に見える様な奉仕をさせて頂いたけれども。最後の、ぎりぎりの所に、条件があった。まぁそれを、分かりやすく言うなら、何時も申します様に、ね。どうぞ無事に、記念祭が、仕え終わられましたならば、ね。それからは、私は、自分のために、自分一家のために、一生懸命働きますが、ね。神様、それから先は、今度は、私のために働いて下さいと言うものの、ね。記念祭のために、一生懸命に働きます。その代わり、記念祭が終わったら、私におかげを下さいと言う、まぁ、赤裸々に、分かりやすく言うと、そういう内容があった。あなたのために、一生、一年間を一生懸命働きますから、ね。記念祭が、無事に終わったなら、後は、ご褒美を、私にくださいよと言うであろう。そのご褒美を下さいと言う、その事が不浄である。その事が、いわば、小さい人間の浅ましい心であって、いわゆる小便である。ね。そして、はぁ、しもうたと、こう思うておるところであった。そこでです、そういう条件を、例えば、抜きにした。後を頂くとか、頂かないという事は、問題ではないと分からせて頂いてです。ね。一月間、もう本当に、一月間で、十ヶ月でも出らなかったものが、後の一月間でですね。それこそ、もう、瞬く間に、私の願いが、願い通りにおかげを頂いたと言う、私のこれは、体験ですけれども、ね。だけではありませんでした。
今日、私は、改めて思わせて頂くのは、ね。その一月間の、無条件で、神様へ打ち向かわせて頂いた、その事がです。私は、お徳を受けたんだなぁと。もうそこに、お徳を貰わんならんとか、大きゅうならんなんとか、無条件、条件を外してしもうたところからです。お徳を受けたんだなぁ。あの時分の事を、二十五年前の事を思うて、それを思います。ね。神様のために、一生懸命働いた。ね。確かに、打ち向かう事になったけれども、そういう打ち向い方ではです。ここに、徳の準備、用意は出来ておったにしても、自分の手にすることは出来なかった。如何にも、それはです、例えて、これは人間的に申しますならです。ね。一生懸命働けば、そこに報酬があると。その報酬を楽しみに、お互い、働いておる訳ですね。勤めの人であるならば、給料日が楽しい。商売人の人であるならば、一日を締めくくってみて、はぁ、今日は幾ら儲かったと言うのが楽しみ。それはもう、普通です。信心してもそうです。信心ば、一生懸命させて頂いて、おかげを頂くとが楽しみ。だから、ところが、それではね、徳にはならないのですよ。おかげにはなっても、徳にはならないのです。ね。で、信心も、段々、浄化した上にも浄化されて、ね。限りなく美しゅうならせていただく稽古をさせて頂いて、改まりに改まらせて頂いて。そして、私が、二十五年前に感じた。そういう、例えば、十ヶ月なら十一ヶ月の、一生懸命の働きが、ね。そこに、小さい、ね。なるほど、その事は真心で、一生懸命に、神様に打ち向こうたけれども、そこに、ちょっとした不浄のために、それは、徳を、そこに用意して下さっておられない。頂きながら、その徳を受けることが出来なかった。
そこで、その条件というものを空しゅうして、はぁ、ここんところに、いわば、無条件の奉仕が出来た。その一月の間にです。いわゆる、私の願いは叶うた。願いが叶うただけではなかった。その事によって、ほんなら、神様の願いも、私の上に叶えられた。それは、神様が、徳を授けて下さることが出来ることになった。まぁ私は、そん時に、徳を受けたとばかりは思いませんけれどもです、ね。例えば、私が、十の徳を受けておるならば、その時に、一つなり、二つなりの徳を受けたんだろうと、こう思います。ね。無条件にならせていただいた、その先の所だけが、お徳になった。ははぁ、打ち向こう倍力の徳とは、そういう時に、受けるものであるという事をです。今日は、皆さんに分かっていただきたいと思うのです。
一生懸命、皆さんが打ち向かいよる。なるほど、一足でも無駄にはさせんと仰るけれども、それは、お徳の条件ではない。一足でも無駄にはさせんと仰るのは、おかげの事であろう、ね。けどもその、一足でも、二足でもがです。無条件の場合、ね。それを、例えば、申しますなら、神様も、無条件におかげを下されてあるのであるから。私共も、無条件に奉仕をすると言う、ね。その奉仕の丈、奉仕のしただけが、十の奉仕が出来れば、二十の徳を受けるという事になるのではなかろうかと、こう思うです。しかも、それには、私が、十ヶ月なら、十一ヶ月ですかね、の、一生懸命に打ち込んだ、あの思いが、中に入っておらなければならない。一生懸命の、一途な思いが入っておらなければならない。ね。それでも、そこに、ちょっとした不浄があった、ね。なるほど、ね。記念祭が済んだら、その後をと言った様なものが、結局、小便になっておったのであり、不浄になっておったのだと気付かせて貰うて、無条件で奉仕をすることになったら、今まで、ね。出来なかったことが、十ヶ月で出来なかったことが、一ヶ月で出来てしもうたという事になる。で、やれやれ、おかげ受けて有難かったと言うだけではなくて、その時には、既に、神様が、その事に対するところの奉仕は、こちらが無条件であっても、神様が、間違いなく、下さっておったんだなぁ、あれが、徳の、言うならば、あぁいう時が、受け初めではなかったろうかと、今にして思うのです。ね。
昨日、私が、前夜祭を頂かせてもらいながら、空しいと言うか、まぁ何と言うか。もう不可解でたまらない気持ち。そしたら、神様は、ね。その、えびらの夢のお知らせを下さった。ね。自分の思いが尽きるほどに、色々思うてみるけれども、分からなかったけれども、さぁ、それを、辛抱させていただくのが、または、そこが辛抱ぞと言うて下さった。ね。そういう辛抱が、私は、ね。そういう辛抱でもって、打ち向かうその、心に、お徳は下さるものだという事。まぁ普通から言うなら、もう、辛抱しゅうごつない様な感じなんですよね、実を言うたら。もう、さぁ早う帰ろう、帰ろうち言ったような感じがするところでしたですね。昨日の所は。ところが、神様が、そういうお知らせを下さったので、じっとこう辛抱させて頂く。辛抱させて頂くという事になって来ると、辛抱させていただくのですから、有難いなぁ。充実した、有難いものを持って帰らせて頂く事が出来た。そういう時にですね。打ち向かう倍力の徳が頂かれるのは。
私が、ほんなら、二十五年前の記念祭を、親教会の記念祭を頂く時に、ね。一生懸命打ち込んだ、その事も、やはり、土台になっておるけれども。最後の一月で、私は、神様に打ち向かう事になった。無条件で、しかも、打ち向かう事になった。それが、私は、お徳の形になって頂けたのではないかと、まぁその時分の事を思うて、ね。あぁいう頂き方こそが、いうならば、お徳の受け初めであったのだろうとこう思います。ね。それから、いわゆる、私の、まぁ本当の、本当の意味で信心するのは、その辺から始まる訳でございますけれども。これは、皆さん、よくよく、一つ、その辺の所を分らせて頂いてもらわなければ。信心しよら、打ち向かいよるから、徳は頂きよるじゃろうという様な事では、これこそ、空しいことになってしまいましょう。手応えのあるものを、一つ、頂いて行きたい。手応えのあるものを、一つ、積み上げて行きたい。神様は無条件。そこで、ね。だから、私共も、やはり、無条件でなからにゃならんのだけれども、やはり、様々な条件が伴う。それが信心だと言うても良いくらい。お互いの信心、ね。それを、段々、分からせていただくとこは、分からせて頂いてです。ようやく、十一ヶ月目で、私が分かったように、ね。そこから、いわば、無条件の打ち向かい方が出来る。その無条件で打ち向こうたところの、丈に対するだけがです。私は、倍力の徳を授けて下さることになるのだという風に思うです。どうぞ。